【余命3年】80歳の自分は想像できないので、いったん36歳で人生を終わらせてみた

以前、「目と耳と鼻を、100億円で売れますか」という話を書きました。
今日はその続きです。
あちらが「いま持っているもの」の話なら、今日は「いま持っている時間」の話です。
80歳の自分が、想像できない
「人生の終わりを想像すると、今日が大事になる」みたいな話、よく聞きません?
でも、いきなり80歳や100歳の自分を想像しようとしても、わたしには全然できませんでした。
50年後。どこに住んでいるのか、家族はどうなっているのか、体はどんな状態なのか。
何ひとつ、ありありと浮かばない。
想像できないものをゴールに置いても、今日の選択には響いてこない…
50年後の「自分」が遠すぎて他人of他人。
「明日死ぬとしたら」も、リアリティがない
「明日死ぬとしたら」もよく言われますよね。
でも、これもわたしには現実味がありませんでした。
どうせ明日は来ると思ってしまうし、本気で明日死ぬなら、仕事も家事も全部やめたるわ!という極端な話になって、普段の生活に落とし込めない。笑
余命3年なら、地味にありそう
そこで、ゴールを程よい未来に置いてみました。
「あなたの余命は、あと3年です」
わたしはいま33歳なので、36歳で人生が終わる計算です。
3年後なら、地味にありそう。
病院行って「余命3年です」と宣告されるシーンなら結構ありありと想像できる。
本気で考えられる。
本気で考え始めると、急に具体的になります。
- やり残したことはないか
- この「普通の毎日」が終わってしまうのか…
- 3年後に子どもたちとバイバイするとしたら今日どう接する?
最期の日を想像したら急にさみしくなってきた。
3年あれば、生活はそのまま続く
「余命3年」のいいところは、今日すべてを投げ出さなくていいところ。
仕事もするし、洗濯もするし、子どもを保育園にも送る。夕飯も作る。
生活は、そのまま続きます。
ただそこに、「この生活が永遠に続くわけではない」という意識が、少しだけ入る。
すると、いつもの朝ごはんや、家族との夕飯や、子どもがやかましい時間まで、少し違って見えてくる。
新しく何かを手に入れたわけじゃないのに、今ある時間の価値が上がるんです。
近い未来に自分の死を仮定してみる
「余命3年」を想像することにより、「普通の日常の価値」を再認識するキッカケになりました。
「終わり」を想像すると、今あるものが急に鮮やかになる。
この日々が「有限」だとわかるから、大事にできる。
わたしには80歳の自分は想像できないけど、3年後の自分なら想像できます。
だから時々、自分の余命が3年だと仮定して残りの日々をどう過ごすか想像してみることにしました。
そうすると、「普通の日々」の本当の大切さ、ありがたさを再認識できるから。
普通の日々は永遠ではないから。
3年後に死んでしまうとしたら、今日はどう過ごそう??
最後まで読んでいただきありがとうございます!





















